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ロールモデル(2)

 内藤節子さん  NPO法人手しごと屋豊橋 代表理事

私立大学事務職員として二人の子どもを育てながら仕事を継続。1982年、双子を出産した後も仕事と子育てを両立させる。
50代、大学職員として働きながら愛知大学を卒業。職場の早期退職制度を活用して大学院へ入学。
2007年3月名古屋大学大学院国際言語文化研究科ジェンダー論講座博士前期過程を修了。
現在は、愛知大学大学院研究生およびNPO法人「手しごと屋豊橋」代表理事。研究と地域活動を両立中。


4人のお子さんを育て、50歳のときに働きながら大学の夜間部に入学。その後55歳で早期定年退職をし、56歳で大学院へと進んだ内藤節子さん。大学院では修士論文に取り組みつつ、論文のテーマに直結したNPOを58歳で立ち上げました。この内藤さんの底知れぬパワーを支えているものは、「女性の自立」。内藤さんが語ってくれたすべてに一貫して「女性の自立」というものを感じました。


「経済的自立」願望

幼少期に家庭の事情で貧しい時代を経験した内藤さんは、今から40年ほど前、「給料がよかった」という理由で、私立の大学職員を就職先として選びました。当時高卒の就職先としては「銀行・公務員」が花形でしたが、内藤さんは公務員試験に合格していたにもかかわらず、給料が格段によかった大学職員を就職先として選択します。

その後4人のお子さんに恵まれます。もちろん出産退職などするつもりはなかったようですが、いくら労働条件がよい職場といっても、現在のように育児休業制度があるわけでもないので、産後休暇明けの、保育園に預けることができない数ヶ月間は子どもの預け先には本当に苦労したそうです。二人目の出産時にお産で同室だった方に「どうせ自分の子どもの面倒見なきゃいけないんでしょ。うちの子も一緒に面倒みてよ」とお願いしたことも。(笑)   
さらに、三回目の出産で生まれたのは双生児。子ども4人となるとどうしても車が必要で、仕事が終わってから免許取得に教習所に通いました。そのときはお手伝いさんをたのんで乗り切ったそうです。「実母はすでに他界していましたし、いざとなればなんとかなるものです。いまでこそ介護・育児・家事の社会化なんていわれていますが、私は当時から働き続けるための必要経費と思って、なんら迷いもなくシルバー人材センターなどの家事サービスを利用していました。」内藤さんのこうした生き方は、ご自身のお母様の生き方をみていて「夫に従属的な主体性のない生き方だけはしたくない」とずっと思っていたことによります。


職場の男女差別

就職した大学職員の職場は、労働組合がかなりしっかりしていたこともあり、労働条件はとてもよかったそうです。例えば賃金は男女同一賃金でしたし、また育児中の人には授乳時間というものが設けられていて、それを利用すると一日5時間半勤務という時短勤務も可能でした。労働者として労働基準法に則した身分がしっかり保証されていたこともあり、女性の結婚退職も少なく、先輩はみな育児をしながら働いていたそうです。

給与・労働条件に恵まれ、どんなに育児が大変でも決してやめなかった職場だけに、「仕事にもやりがいがあったのですか?」との問いに、「職場における男女差別の評価に不満でした」と、想像に反する回答が返ってきました。男女同一賃金でも、男性中心に仕事はまわり、女性の管理職はなかなか誕生しません。内藤さんとしてはまったくおもしろくない状況です。若いときは何度も転職を考たり、裁判を起こすという選択肢もありましたが、こうしたことに費やすエネルギーを他の形で発揮できないかと考え、大学の夜間に入学を決意。50歳のときでした。このときはまだ末子が高校生だったので、安定した収入も必要と考え、「働きつつ学ぶ」ことを選択しました。


夜間大学生から大学院へ

いざ学生生活が始まってみると、学ぶことが性分にあっていたのか、勉強が面白くて仕方なかったようです。「学ぶということの奥深さを感じました。学ぶということは、自分ががんばった分、成果となってかえってくる。そして学問には差別がないこともわかりました。年齢も男女も関係ないものだと実感できたことがうれしかったですね。」

環境にも恵まれ勉学に打ち込んだ甲斐あって、卒業時には夜間学生としては初めて卒論で「経済学部学会賞」を受賞しました。ご自身の能力を職場における評価とは違った形で示したいという強い気持ちを晴れて達成できたのです。

その後、内藤さんは1年間の研究生を経て、2005年4月に56歳で社会人入試制度により名古屋大学大学院に進学されました。


特定非営利活動法人「手しごと屋豊橋」の立ち上げ

驚くべきことに、内藤さんは大学院の修士論文執筆と並行して、NPO法人「手しごと屋豊橋」を2006年12月に立ち上げました。

この「手しごと屋豊橋」は、数年前に「これまでの社会経験、生活から培ってきた各人のキャリアを活かす」ことを目的に始めたグループ活動が源流です。「同世代の女性は夫や家のために生きてきた方が多いので、これからはもっと個性をだしてほしい」という女性たちへのエールを込め、そのしくみを作ったのでした。
このグループでの約束事は、「年だから・・・」「私はなにもできません・・・」といった言葉は禁句。とにかく各人が長年培ってきたこと、得意なことを発揮しあう。「みんな違いがあって良い」を合い言葉に活動を行ってきた結果、個々人が責任や自覚をもつことができ、自信も生まれ主体的な行動力がめばえてきました。そして「手しごと屋豊橋」の法人化への原動力になって行ったのです。


エイジズムの打破―学びながら地域に暮らす。

「少子高齢社会は、一般的に言われているネガティブな面ばかりでなく、逆手にとって自分の人生を再度活かすチャンスだと考えたらどうでしょうか。若いときに実現できなかったことが長寿化のおかげで、実現の可能性があるではないですか。Betty Friedanが『老いの泉』(1995)の中で述べる「人間は60歳代、70歳代、80歳代になっても能力は進化する。したがって、社会で能力を発揮し、元気に生きることがエイジズムの打破につながる」と述べています。特に女性にとっては子育てを終わった老後期が長い分、まだまだこれからが楽しみです。」

 2007年3月に大学院の修士課程を修了され、現在はちょっと一息の内藤さん。今後はNPOの活動を通して女性の社会参加を促し、地域社会に貢献していくことはもちろん、なにより学ぶことの楽しさ、苦しさの醍醐味があるので、大学の研究室に籍を置き、修士論文の研究をさらに深めたいとのこと。その研究が「手しごと屋豊橋」のNPO活動をよりよいものにすることにもつながっていくと考えています。修士課程を修了したからこれで終わりというわけではなく、「学びながら地域に暮らす」をテーマに「生涯現役」であり続けたいという内藤さん。今後どのようなステージがまっているのでしょうか?さらなる活躍が期待されます。

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