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地域活動とNPO活動の接点

明石雅世さん 

33歳で夫と死別。生涯学習センターで学び始めたのが38歳。その後NPO活動に参画し、子ども会・PTA・福祉活動ボランティアとのつながりを実感。現在、NPO法人常任理事。



時代に合った?女の子として生きる

 明石さんは1960年生まれ。高度成長期とともに子ども時代を過ごしました。家電製品は次々と新しくなり、物が豊かになっていく時代。土地計画で大きな道路ができ、舗装され、「交通戦争」という言葉が生まれた時代でもありました。そんな時代に明石さんは、夕日のにおいを感じながら路地で遊び呆ける子どもだったといいます。ごく自然に世間の風を受け止め、逆らうことなく育っていきました。

 高校の進路を決めるときも、父親の考えに沿って商業高校でよいと思っていたところへ、中学の担任が普通高校への受験を進めてくれたことで変更し、普通科へ。大学受験も金銭的な理由から名古屋市立の短大へ入学しました。就職も、当時は短大なら学校推薦で100%就職できる時代。1980年にトヨタ自動車(株)に入社します。そこで人事部人事課に配属され、男性社員のよきアシスタントとして4年間働いたそうです。

「あの時代に合った女の子だった」と振り返る明石さん。良くも悪くも現状を当たり前と思い、不自由なく進学し就職する自分は、社会のあり方に疑問を持つ余地などなかったと話します。

自由な20代を送り結婚にいたるまで

 トヨタ自動車を自己都合で退職し、いずれ見合いをして結婚するつもりでいた明石さんは、今でいうフリーターを2年間経験。そして再就職します。再就職は、トヨタ社員時代に同じ職場だった上司から声をかけられ、トヨタの関連会社へ。そこで結婚退職するまで4年間働きました。1985年に男女雇用機会均等法がスタートした後の再就職。女性の自分が東京や大阪へ出張に出かけたことは、トヨタ社員時代には考えられなかった働き方でした。

 その間に、レクリエーション指導者資格を取得したり、青年の家で講座を受講したり、休暇があれば、スキー、テニスなどスポーツや旅行にも出かけたといいます。明石さんにとって20代も、単純に自分の好きなことをやってきた時代でした。アルバイト先や再就職先は、次から次へと紹介でつながりました。そうした人との出会いには、今も感謝しているそうです。

仕事も遊びも、どちらも一所懸命にやってきたという明石さんは、29歳で結婚へ。新たなスタートとしての結婚生活も、また希望と夢をもって始まりました。

人生最大の出来事、夫との死別

「人生はつじつまが合うようになっているんですね」。それまで世間知らずで、なに不自由なく過ごしてきた明石さんに、人生における試練が初めて降りかかります。1998年に結婚し、長女が生まれたのは翌年のこと。そして2人目を妊娠したときに、夫が仕事中の事故で他界してしまいました。

199311月。「あの1日を境にして、生活がガラッと変わってしまった」と、明石さんは振り返ります。事故にあって心肺停止となった夫と集中治療室で対面したとき、まさか自分がこのような立場になるとは信じられませんでした。それから4日後に明石さんの元を旅立っていった夫との短い時間は、人生の貴重な時間でした。集中治療室は、今までの日常とはまったく別世界。しかし、時間がたつにつれ、そこが日常の生活になってくことを当たり前として感じる自分がいたといいます。

夫の死後、明石さんは実家に戻りました。仕事中の事故により労災が認定されたため、生活の目処がついたことは安心でした。半年後、妊娠していた次女が生まれ、新たな家族でスタートを切ることになります。

2年後、父親も他界し、短大時代の友人も乳がんと闘い40歳でなくなりました。当時、阪神淡路大震災や、サリン事件が起こっています。事故や事件で人の命がなくなることは、ひとごとではない。私と同じように涙を流している人たちが世の中、世界中にいるんだということに気づかされました。それを機に、人は「死」を避けられないこと。そして、万が一とそうでない確率は、2分の1だということを身にしみて感じました」35歳から40歳の間に、立て続けに経験した、大切な人たちの死。それが、明石さんの人生観を変え、徐々に、今の自分を支えるよりどころになっていきます。

NPO活動と地域活動の両輪を続けた40代

明石さんは次女が幼稚園に入園したのを機に、生涯学習センターで「女性セミナー」を受講します。その縁で、NPO法人ウイン女性企画と出会い、NPO活動に参画。その後、NPO法人参画プラネットの常任理事となりました。教育や子どもの問題、環境問題にも興味を持ち、さまざまな講座や講演会に参画していきます。学校のPTA活動や、子ども会、地域活動にも積極的に関わり、名古屋市にある東別院(真宗大谷派名古屋別院)では、主催している「フォーラム女性」で10年間、ボランティアで講座の企画運営に携わってきたそうです。

「NPO活動で培ったノウハウは、PTAや特に子ども会活動に大きく役立ちました。当日の会議の進行、レジメの作成、事業企画運営、報告書作成などマネジメントが全くできていない状態の子ども会活動は、4年間携わって、ゼロから体制作りをしました。組織作りと1年の流れのマニュアル作りを確立し、次にバトンタッチすることができました」。NPO活動での経験を生かし、地縁組織が強い地域活動に一石を投じてきたといいます。

また、会社員時代は「世界のトヨタ」にいながら、自分は井の中の蛙だったそう。10年の市民活動を振り返って、こう話してくれました。「私は、結婚をし、子どもを育てながら、世の中が見えてきました。NPO活動とか地域活動に参画することによって、自分の暮らし自体が、社会や政治に直結しているんだということに気づいたんですね。そこで視野がすごく広がったんです」。

50代のこれからをどう生きるか

死を通して生きる意味を考えているという明石さん。東別院で出会った言葉「どう生きる」は、自分が躓いたときの指針です。「何で生きてるんだろう」と考えるよりも前向きな問いであるこの言葉に、明石さんは何度も救われてきました。「今まで後ろ向きの人生を送って来なかったことで、悲しみを乗り越えられたんだと思います。いつも周りの人に助けられ、子育ても、いつも誰かが手を差し伸べてくれ、私のまわりは常に賑やかでした」と、人との縁に感謝しているといいます。

現在は、東別院でのボランティアに加え、東区社会福祉協議会での第2次地域福祉活動計画の策定委員・作業委員として活動中。2008年の10月には、なごやつどいの広場事業として、東区に「つどいの広場♪ハーモニー♪」を立ち上げるなど、活動の主体を地域においています。

「なぜ、わたしが地域活動に目を向けるのかと言うと、友人と約束した、「40過ぎたら社会に還元」という言葉が、心に大きく閉めているところがあるからです」といい、これからの50代は、出会った人々に感謝して、背伸びすることなく、楽しんで活動していきたいと笑顔で話されました。




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